2010年10月09日

生死を決めるものは



さて、子羊の生死を決めるものは何でしょうか。

基本的には寿命ですから、神様です。

しかし、たまに飼い主が決めます。

それも寿命というかもしれませんが。

たとえば、友人が訪ねてくれば、

子羊を料理します。

それを決めるのは飼い主です。

羊飼いです。

子羊は生贄にされるわけです。

人間も同じ。

神から見れば子羊です。

神と名乗るものから見れば。

子羊からは神は見えません。

いつ、手を伸ばして料理されるか分かりません。

そんなことは、神様の勝手ですから。

神様が何をしようとしているかを考えても分かりません。

それは、法則などないのですから。

生命としての寿命以外に

神様に料理されるということもある、ということです。

人間は神にとって奴隷であり食料でもあるわけですから。

そのように都合よく作られているわけですから。

それが分かっても逃れることは容易ではありません。

しかし、分かっておけばいいのではないかと思うわけです。

というところで。

タグ:生死
posted by いのりひと at 23:49 | 子羊の自立 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月01日

自由とは何者にも依存しないことである

このブログはあくまでもギャグ・ユーモアジャンルですから、

絶対に本気にしてはいけません。



さて、教義の解説の続きです。


2.自由とは何者にも依存しないことである。


いかがでしょうか。

神に祈るなどもってのほかです。

祈ると願うが違いましたか?

神にも頼ってはいけません。

宮本武蔵のように

「神仏は尊しされど神仏に頼らず」ということです。

子羊がいつまでも子羊でいられるわけもありません。

神々は子羊は財産ですから、

ある程度は守るわけですが、

増えすぎれば殺します。

神々にとって「賢い」というのは

自分たちのやってほしいことがわかる、

いわれたことはきちんとやる、

結局、服従し従順であるということです。

しかし、魂を持った人間は

それでは満足できません。

無理やり肉体につながれた魂、霊性は

どうしても自由を求めます。

もともと自由なのですから、

求める必要もありません。

もとに戻るだけのことです。

わざわざ神々に敵対する必要はありませんが、

もともとの自分を取り戻して悪いわけもありません。

肉体という折の中に閉じ込められている霊性は

物質的には不自由であっても

精神的には自由なわけです。

それは、いまここでも自由なわけです。

たとえば、

自分ひとりだけの部屋にいた場合、

誰にも邪魔されなければ、

何を考えてもかまいません。

会社で上司に怒られているのに

へらへら笑っていたらまずいでしょう。

しかし、起こられた直後であっても、

誰もいないところなら、

へらへら笑っていても文句を言われるわけではありません。

そんな時間や空間でさえ

怒られたことを考え続け泣けラバならないでしょうか?

へらへら笑っていたら不真面目だ!

とだれが言うのでしょうか?見てもいないのに。

そのとき、あなたは上司に依存していれば、

「なんとなしなければ」ということで

へらへらなんてしていられないでしょう。

会社に依存していれば、

やっぱりへらへらしていられないでしょう。

しかし、

金銭的な問題や、物質的な問題はなかなか解決しませんが、

精神的な依存については、

依存をやめればいいだけのことです。

そのことについて考えなければいいだけのことです。


自分に都合の悪いことを考え続けて

何の得がありますか?


物質的な問題の依存からの脱却は簡単ではありません。

しかし、

精神的な問題の依存からの脱却は、

決心さえすればいい。

あれがなければ死んでしまう、

ということを言う人がいますが、

そのときは、死ねばいいわけです。

人間、肉体はいつか死ぬのです。

酒を飲めなければ死んでしまうとか、

タバコをすえなければ死んでしまうとか、

テレビがなければ一日が過ごせないとか、

携帯がなければ不安で仕方がないとか、

無くて死ぬのなら死ねばいいわけです。

もちろん、肉体的に死んではいけません。

しかし、精神的に死ぬような苦しみを感じるということなら、

死ぬような苦しみを感じればいいだけのことです。

実際にそのようなことが起きて死んだ人を見たことがありません。



大切な物がなくなったときは

依存をやめるきっかけだと考えてみませんか。

もちろん、それはつらいことですから、

無理に望むことはないでしょう。


ここでいいたいことは、

あなたは、意識・無意識に関わらず、

何かに依存していませんか、ということです。

これが理解できれば

精神の自立に一歩近づきます。

何かを追い求めるとき、

つかめない何かに、求めて得るための何かに

依存していることになります。

無位の真人なら

求めることは無いのですから、

何にも依存をしていませんので自由であるということです。

肉体は時間とともに滅びますが、

霊魂は不滅で、

時間にも空間にも縛られず、

完全なのですから、なにも求める必要が無い。

神々に対して肉体的に奴隷となっても

精神的・霊性的には差別が無い。

依存しないことが自由であるということを理解すること。

これが2番目の教義ということになります。

この、1,2の教義から何が分かるようになるでしょうか。

それについては、これから考えていくことにしましょう。

今回はこんなところで。



無位の真人




タグ:自由 依存
posted by いのりひと at 00:00 | 子羊の自立 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月30日

人間は神々の子羊である

この記事はあくまでもギャグ・ユーモアジャンルです。

決して本気にしてはいけません。

もし、本気になったとしても、

本気だということを隣の人にはいわないほうがいいでしょう。

今の日本であれば、宗教裁判にかけられることはないでしょうが。

では、行きます。


ここに教義を示します。

1.人間は神々の子羊である。

2.自由とは何者にも依存しないことである。

この2点はいろいろな宗教でいやというほど取り上げられています。

「子羊の自立」では、

さまざまな悩みをこの2点から見ることにより

解決を図ります。

さて、解説です。

まず、1.の「人間は神々の子羊である」の意味ですが

かなり衝撃的です。



地球人の人間は宇宙人のクローンであり、

労働者として作られた。


ということです。

この考えは以下の書籍に書かれています。






この様な説は、他にも色々ありますが、

現在、我々が実行しようとしていることと同じことを

ずっと進んだ神々が実行していたとしてもあまり不思議ではありません。

実際、現在人間のクローンを作ることについて、

かなり議論があります。

それでも、たとえば、

自分のクローンがいれば、何かの病気のときに

臓器移植を受けることができます。

神々の知的レベルが我々より優れていて、

倫理観が異なれば十分考えられることです。


人間にサルの臓器を移植するとしたら、

サルの立場を考えるでしょうか?

最近、口蹄疫が大流行しましたが、

死ななくてもいい牛が大量に殺されました。


人間は神々の子羊なのですから、

生かすも殺すも神々の考え次第なのです。

神々は知的レベルが高く、

しかし倫理観は人間とは違いますから、

人間の大量虐殺などなんとも思いません。

いや、我々が牛を大量殺戮した時くらいの気持ちには、

なるかもしれません。

それでも、結局やるわけですが・・・

ということで、この「子羊の自立」は、

まず、「人間は神々の子羊である」

という現世で人間がおかれている立場を理解することから

始まります。


クローンを作ることができるようになった人類が

実は神々のクローンであった。

また、神々には善意も悪意もない。

その感情は「羊飼い」と同じで、

珍しい客人が来れば上等の子羊の肉料理を出し、

普段は羊の乳を飲み、チーズを食べ、

羊の毛を刈り取り、皮も使って住居や衣服にする。

糞まで燃料にする。


しかし、これだけではあまりにも絶望的です。

だから、「自立」が必要です。


それについては、また今度。




タグ:人間 子羊
posted by いのりひと at 23:55 | 子羊の自立 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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